まみょうの雑談部屋

まみょうの中の人のぼやき

12.01.20'.

私の知り得る世界のすべては滞りなく幸せに満ちているようだ。

 

ここで誤解を招かないよう言っておくと、アフリカの子供が貧しいとか、共産主義がまだ蔓延っていてその国内の国民が苦しい生活を強いられているとか、そういった第三者視点で語るようなありきたりで教科書に書いてある、世界の理不尽は嘆くつもりはない。そんなことは私がどうこうできることではないし、そんな議論が無駄だと最初に言っておく。

 

だからもう一度言う。

 

私の知り得る世界のすべては滞りなく幸せに満ちているようだ。

 

実に思考を止めて悩み、話し合い、そのままにしていく。それを成長、人生といって生きている。

 

下らない毎日、下らない講義、下らない己の何も無さ、下らない他人の笑顔...挙げ出したらキリがない。どいつもこいつも実に幸せに悩む。

 

つい先日、用件があって新宿に行くことがあったが、街を見ていたら日本の少子高齢化は気になりもしない絵空事なんじゃないかと思える程若人のカップルが出歩いているのである。まあ今は567禍なのにそういう光景ってことはまぁそういう人間のカタチをした生き物が増えたってことな訳だが。

 

今私は何で生きているのだろうと考えることが前より増えた。

 

正直私に出来ることをより出来る人間は腐るほど居て、出来ずに他人を蹴落としたり、他人にすがる(ヒトのカタチをした)モノも腐るほどいる。

 

私は価値を産み出せない。私は1以上を返せない。私は組み合わせで出来た生き物である。私は、1以上の光る世界に惹かれて追いかけてきて、私にはその世界を眺めることは許されど、入ることは出来ない。

 

私を取り巻く世界は実に幸せのようだ。

 

実に幸せになってほしい。

私はそう願う。

 

私は私が嫌いだ。

私のような人間モドキが、この世界にはいるのだろうか。もしそうなら、その人達には光る世界にいってほしい。私は私だけが人間モドキだと確信しているし、根拠もあるからな。

 

私は私が居なければ世界は平和だと本気で考える。私という組み合わせの分際で個をもつモドキが消えれば私も息をせずに済む。なぜここに居て、光るモノを見たくなるのか、目が有るから。だから目はなくて良い。音も耳、感覚も四肢だ。

 

親に感謝はしない。友達と呼べる存在はいない。そもそも私を生み出した親という存在、その親戚以外は私にとって見たことあるヒトという括りだ。育ててくれた時間と金はせいぜいその返済までは生きておくことにしているから。

 

私は何なのだろう。

 

私は生まれた時点でマイナスで、当然プラスや0以上の存在に引き殺されてそれでも生きろと言われる。生きる価値は他人がもう見つけてしまった基本例題を解くばかり。そして光はプラスからしか生まれないときた。

 

私を取り巻く世界は実に幸せだと、私に教えてくれた。