まみょうの雑談部屋

まみょうの中の人のぼやき

01.31.24'.

2024年1月31日

 

はやいものだ。

今年は元日に能登地震があって、翌日JALと海保機が衝突した。

 

今週の月曜には、新年度内定者との懇談会@オンラインがあって、1年前私も同じ立場にいたのだと、思った。

 

はやいものだ。

 

振り返ることをしてはいるはずなのに、何故かはわからない。

時刻はPM10:12を過ぎる今だ。

特に何か曲などは聴いていない。

 

ひどく虚無感をまた、覚えた。

1年経って、それでまだまだということは全然驚いてはいないわけで、むしろ最近は去年夏よりずいぶんペースは掴んだ方だ。

 

不思議だ。

帰りのバスの中、最前行2列目で、また思い出していた。

 

最近、自分は間違っていて、なんだか知らないけど世界はその方がいいってことに気付いたきっかけを連続して体験した。

どうにも、私のやり方はとにかく違うらしい。

 

そうか、と。

実は今回は受け入れてみたところがあるのだ。

変われるかはわからないし、変わろうとか思ってもないから、ただそこは成り行きでいいやと思った。

だから、自分は違う。

そして、世界は自分を排除していっても、それでいいやと。

 

私は私の世界をつくることに全力を出している。

そのやり方は世界にとってみれば間違いだが、私の作った世界は私だけが理解しているし、私は自分さえ理解していれば十分だ。

 

そういったことがあった。つい最近まで。

そして何日か経って、今の私がいるわけで。

 

なんだか不思議なんだ。

 

初心を忘れたわけじゃないんだけど。

今も仕事は怠惰にしていないよ。

知らなかったり、考えたりしないといけないことで、時間はかかることが多いけれど。

でもそれも、必要なことだと理屈でも経験としてでも、納得している。

 

だから不思議なのかもしれない。

 

 

10.07.22'.

2022年10月7日

 

私の内定式がありました。

少し遅刻して、人事の方や同期となる7人には心配をかけてしまったのが心残り。

 

まぁ当日、前日からの腹痛がひどかったのも大きいけど。

 

内定書をもらいました、それと。

なんか志のようなものを1分程度各自偉い人の前で話しました。

帰ってきた今となってはあまり覚えていません。

 

飲み会も同期の方が取り付けてくれていました。

でも今日は3日目の雨で、それも12℃くらいしか気温が無かったので、あまり冷たい飲み物は控えながらでしたが(笑)

 

みんな友達や仲間がいることが誇らしいようでした。

普段の友達とどうしているかなどが話題に上がりました。

あとなぜかバイトの話も。

 

男子は4人ですが、どうやら僕以外バリバリの技術系にはいきたくないみたいです。

一人は営業の方で決まっているし。

 

少し不思議です。

 

女子4人の方とはテーブルできれいに割れていたので、よく分からなかった。

まぁ4月から、研修終わったらもうあまり話すことは無いと思います。

 

今、Fluorite Eye's Song -Piano Version- を聴きながら書いてます。

 

別に感傷的に書いているわけではありません。

ただ、みんなやはり違ったというだけです。

 

正確に言うと、私一人が相変わらず違うようです。

 

ひとりの旅はまだ続くみたいです。

 

12.01.20'.

私の知り得る世界のすべては滞りなく幸せに満ちているようだ。

 

ここで誤解を招かないよう言っておくと、アフリカの子供が貧しいとか、共産主義がまだ蔓延っていてその国内の国民が苦しい生活を強いられているとか、そういった第三者視点で語るようなありきたりで教科書に書いてある、世界の理不尽は嘆くつもりはない。そんなことは私がどうこうできることではないし、そんな議論が無駄だと最初に言っておく。

 

だからもう一度言う。

 

私の知り得る世界のすべては滞りなく幸せに満ちているようだ。

 

実に思考を止めて悩み、話し合い、そのままにしていく。それを成長、人生といって生きている。

 

下らない毎日、下らない講義、下らない己の何も無さ、下らない他人の笑顔...挙げ出したらキリがない。どいつもこいつも実に幸せに悩む。

 

つい先日、用件があって新宿に行くことがあったが、街を見ていたら日本の少子高齢化は気になりもしない絵空事なんじゃないかと思える程若人のカップルが出歩いているのである。まあ今は567禍なのにそういう光景ってことはまぁそういう人間のカタチをした生き物が増えたってことな訳だが。

 

今私は何で生きているのだろうと考えることが前より増えた。

 

正直私に出来ることをより出来る人間は腐るほど居て、出来ずに他人を蹴落としたり、他人にすがる(ヒトのカタチをした)モノも腐るほどいる。

 

私は価値を産み出せない。私は1以上を返せない。私は組み合わせで出来た生き物である。私は、1以上の光る世界に惹かれて追いかけてきて、私にはその世界を眺めることは許されど、入ることは出来ない。

 

私を取り巻く世界は実に幸せのようだ。

 

実に幸せになってほしい。

私はそう願う。

 

私は私が嫌いだ。

私のような人間モドキが、この世界にはいるのだろうか。もしそうなら、その人達には光る世界にいってほしい。私は私だけが人間モドキだと確信しているし、根拠もあるからな。

 

私は私が居なければ世界は平和だと本気で考える。私という組み合わせの分際で個をもつモドキが消えれば私も息をせずに済む。なぜここに居て、光るモノを見たくなるのか、目が有るから。だから目はなくて良い。音も耳、感覚も四肢だ。

 

親に感謝はしない。友達と呼べる存在はいない。そもそも私を生み出した親という存在、その親戚以外は私にとって見たことあるヒトという括りだ。育ててくれた時間と金はせいぜいその返済までは生きておくことにしているから。

 

私は何なのだろう。

 

私は生まれた時点でマイナスで、当然プラスや0以上の存在に引き殺されてそれでも生きろと言われる。生きる価値は他人がもう見つけてしまった基本例題を解くばかり。そして光はプラスからしか生まれないときた。

 

私を取り巻く世界は実に幸せだと、私に教えてくれた。